第2章 凱旋(2)

前頁より



 復活祭が終わると、ウィリアム王は、軍団を海岸から内陸に移動し、
5月1日、サン・ピエール・スール・ディヴ(ディヴ河畔のサン・ピエール
市)に着いた。
昨秋、イングランド侵攻の軍団を集結し、訓練を重ね、戦略を練った
想い出の深い地である。

 サン・ピエールの市内には、ヘイスティングズで共に戦ったユのロバ
ート伯の母レスラインが創建した聖メアリー寺院があった。
ウィリアム王は、この聖堂で勝利を感謝し、戦没者を弔うミサを行った。

 6月になってルアンの近郊ジュミエージュに移った。
今は廃墟になっているが、当時ジュミエージュの修道院は優れた聖職
者を輩出していた。
ジュミエージュを訪れたのはわけがある。

「ウォルター、ジュミエージュではロバート大司教鎮魂のミサをせねば
なるまいのう」
「御意」

「ジュミエージュのロバート」師は、故エドワード懺悔王の信任が厚く、
懺悔王の要請でイングランドに随行し、一時期カンタベリーの大司教
に就任していた。
しかし、懺悔王に楯突いたゴッドウィン伯一族の反乱と復権の政争で、
1052年にその地位を追われ、小さな漁船でノルマンディーに逃れて、
古巣の僧院に隠棲し、1058年逝去していた。帰国後も僧院の増築
に力を注いだ敬虔な聖職者であった。

 かって、ローマ教皇庁に旅する途中でウィリアム公に拝謁し、「エド
ワード懺悔王は、イングランド王の王位をウィリアム公に、譲ることも
考慮している」と伝えたことがあった。

 ウィリアム公が、イングランド侵攻の大義名分を掲げたひとつに「ジ
ュミエージュのロバート」大司教罷免問題があった。
「ゴッドウィン家のハロルド前王たちが、ロバート大司教を、教会法の
規則を無視し、一方的に大司教を罷免した措置は違法である。更に、
ローマ教皇の取りなしも無視したカンタベリー大寺院など聖職者の態
度は許せない」
と、指弾していた。

「イングランド侵攻が一段落した今、ロバート師を鎮魂し、師が僧院長
として創建し、かつ隠棲したこの由緒ある僧院を、神に奉献することは、
ノルマンディーの聖職者に深い感銘を与えましょう。とりわけカーンの
ランフランク僧院長は喜ばれるでしょう」
とウォルターは同感した。

 7月1日、ジュミエージュ僧院のミサには、アヴァランシュやリジュー、
エヴルー、カーンなど領内各地の高位聖職者全員が集められ、ノル
マンディー最長老の聖職者であるルアン大寺院のマウレリウス大司
教の司式で厳粛に挙行された。

ジュミエージュの僧院では、もう一つの大事な用件があった。
ジュミエージュ僧院長と同席したカーンのランフランク僧院長が、中年
の修道士を王に紹介した。

「この僧は聖職者としては身分は低うございますが、ラテン語に長け
筆の立つウィリアムという修道士です。人物も信用に足ります。この
機会にノルマンディー公爵家の年代記を書かせてはいかがでしょう
か」
と王に進言した。



「ジュミエージュのウィリアム」と呼ばれた修道士は、この時油の乗り
きった47歳であった。
 王は直ちに執筆に取り組むよう命じた。

「分かりました。ご用命謹んでお受けいたします。酋長ロロ殿以後ウィ
リアム王に至る年代記を、拙僧、全知全能をあげてお書き致します」
と、「ジュミエージュのウィリアム」は静かに答えた。

後年いくつか改竄の筆が加わったとはいえ、「ジュミエージュのウィリ
アム」が執筆したノルマンディー公爵家年代記は、貴重な史料とな
っている。

 1ヶ月後の8月8日、ルアン大寺院のマウレリウス大司教が逝去し
た。ジュミエージュ僧院でのミサが、この大長老最後の公式行事とな
った。
 ウィリアム王は、ノルマンディーでの最高位の大司教に、アヴァラン
シュ寺院のジョン司教を任命した。
ジョン司教は部下のロドルフ伯の息子であったので、この登用はロド
ルフ伯の忠誠心を一層増す効果もあった。

 この一連のミサと多額の寄進により、教会勢力は完全にウィリアム
王の2国統治を強く支持する立場になった。

 ランフランク僧院長の助言を容れた教会対策も、領民対策も完了し
た。しかし、なぜかウィリアム王の気持ちは重かった。



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